top of page

​『海石榴』

時期:3年前の冬。 視点:--

(こんな与太話を信じ込むなんぞ、なんと哀れな話よの。……いや、みな心の内では分かっているのじゃろう。)

そう思い馳せていれば、キラキラとした双玉がこちらを覗いていることに気が付いた。

「……姐さんはそういうの、無いんですか?」

この初い少女もまた、そう言った話が好きなようだ。

「わっちはぬしの言う“そういうの”とは無縁じゃからのう」

「ええ!?姐さんくらい綺麗で人気もあったら、一人や二人……いやもっと居たっておかしくないのに……」

「“好く”と“好かれる”とは別の話じゃろうて。……それにじゃ、男に縋るような形でここを出ようとも思うとらんからの」

「…………なんだか、格好いいですねぇ」

髪を梳かしながらそんな風に他愛もない話をしていれば――、

『――ッなんだって!?』

 

不意に私室の外から怒声が聞こえてきて、動かしていた手を止めた。

 

「……なんじゃ、騒がしいのう」

襖を少し滑らせて廊下の奥を覗き見れば、どうやらお母さん<この置屋の主人>の部屋の方からだった。

自分と同じように何人かの芸者仲間が顔を覗かせており、視線が合えば“今度はなんの揉め事か”と言うように、どちらからともなく眉を下げもするだろう。

「お母さん、大分怒ってますね……。最近色々とあって、あんまり機嫌が良くなかったみたいですけど……、今度は何が……」

「わっちらにはどうでも良いことじゃ」

不安そうに顔色を曇らせるお菊を安心させるように、そのまるい頭を緩く撫ぜてやる。

そうしている内にも置屋内に響くような大声で会話が続くものだから、嫌でも事のあらましはつかめてしまうのだった。

 

『あんの小娘、昨晩から帰ってないと思ったら——』

『下らない噂話なんかに唆される阿呆でもそのまま逃がすわけにはいかないだろう。大方碌に金を持ってない男と駆け落ちでもしたんだろうさ、まあこの寒さじゃあ死んじまってるかもしれないがね、死体さえ引っ張れたら向こうの親にでも吹っ掛けりゃあいいんだ。ほら、さっさと探しに行ってきな!』

 

「姐さん、今の”噂”ってひょっとして……。」

「例の渡し舟の話を信じたのじゃろうか……、全く、捕まろうものなら折檻は免れんと言うのに」

「……無事だといいですけれど」

 

矢張り、自分達には関係のない話に過ぎない。

そうして部屋の中に引っ込もうとすれば、不意に奥の部屋の襖が開いた。

 

「椿!椿は居るかい!椿!!」

矢継ぎ早に自分を名指しするその声には思わず息を吐き、「おります。」と端的に返事をすれば、腰を上げた。

「お菊や、ぬしは無謀なことを考えるでないぞ」そう言って、再びその丸くすべらかな後頭部を撫ぜたのだった。

bottom of page