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​『海石榴』

時期:3年前の冬。 視点:--

江戸の冬は厳しいものだ。ここ――吉原も例に漏れず真っ白な雪が積もり、緩やかな傾斜で足を滑らせている者も見受けられるだろう。

鈍色に曇った空はその色だけで身体の芯からを凍えさせ、仮に火鉢を一つ灯したとて到底温かさなど感じられぬだろう。

街中を早々と通り過ぎて行く人の間を縫って見上げた空にそんなことを考えたのもまた、物悲しい冬のせいだろうか。

 

「……」

置屋へと戻る最中街の端にある大門が視界に入った。

この町の、ただ唯一の出入口。それ以外を掘割*で囲んだこの小さな籠のなかで、自分達は花のように愛でられ、そして枯れるしかないのだ。

 

 

「あ、姐さん~!探していたんですよ、今日の暮れ六つから余興のご指名みたいです!」

 

置屋へ戻れば、ぱたぱたと軽やかに駆ける一人の少女<お菊>が出迎えてくれた。

いくばか低い位置にある双眼は未だ澄んだ色を残していて、それを見る度になんとも言い難い憧憬に似た感情を感じるのは、自分がこの世界に染まっているからに違いない。

 

「……お菊、ぬしは日頃の言葉から気を付けるようにと“お母さん”に言われておるじゃろうて」

「あはは……、どうにも馴染まなくって……。でも、お座敷では気を付けますから!」

「わっちは構わんが……。どうにも最近は吉原全体気が立っておるからのう」

「ああ……、お風呂屋さん*の件ですか。……確かに、治安も以前と比べてよくなくなってきましたねぇ……。でも、街が変わっても私たちが売るのは芸!それは変わりませんからね!」

 

元気いっぱいに溌剌とした笑顔を浮かべてそう口にするお菊。

「そうじゃの」

この町が変わったとて、自分達はなんにも変わることは無い。

唯、女を弱く従順なものであると思い込み都合よく扱うような男たちから金銭を得て、見返りに彼らに芸を披露する。(それを卑下している訳ではないが。)

沼の中でぐるぐると泳ぎ回っているだけのような生涯かもしれないが、それでもこれが“自分達にできる最大限の生きるための努力”なのだ。

……この少女もいつの日にか、そんな諦念を抱く日が来るのかもしれない。

 

「そう言えば姐さん、聞きました?“渡し舟の噂”」

「渡し舟?……ああ、近頃流行っておるあれか」

“渡し舟の噂”

ここ数日で瞬く間に広まった、迷信じみた”ある物語”のことだ。

「素敵ですよね……丑三つ時に日本橋川の河原に行くと、恋焦がれた殿方が迎えに来て下さるって!」

 

……そう、件の噂はそう言った話なのだ。深夜に一人で日本橋川へ行くと、慕った相手が渡し舟に乗って迎えに来ると言う話。ざまざまと自由の利かない遊女らの間ではこんな御伽噺がめっきり流行っているのだった。

​​[ 用語 ]

*掘割:地面を掘って水を通した堀。元吉原はこの堀で囲まれており、唯一の出入口が大門。

 ​*お風呂屋:一六四〇年、遊郭の夜間営業が禁止されたことがキッカケで、幕府非公認の風呂屋(湯女)が吉原にも進出するようになった。

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