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『海石榴』

時期:3年前の冬。 視点:九条→椿→九条

「――なあ、九条殿。言葉が足らないにも程が……っ。」

 

行燈の明かりを頼りに件の気配を辿ってやって来たのは、吉原―正しくはその外側だが―だった。最寄りの浜町川まで船を付けそこから大急ぎでやってきたものだから、後について来ていた男は肩を上下させていた。

「ですから、私一人でよいと……、」

「そういう訳にはいかんでしょ。あなたに何かあれば、大目玉をくらうのはこっちなんですから。」

 

これだからこの男は、不真面目なのか生真面目なのかよく分からないが、不測の事態を思えば頭数は多い方がありがたい。

「……、分かりました。お供感謝いたします。」

そう言いながらも大門の方へと歩いて行く。やはり吉原の区域の方から微かな気配が滲んではいるが、それは敵意や悪意の類ではないのだから不思議なものだった。

「それで、一体なぜこんな時間に……、しかも吉原とは。」

「……言葉で説明をすることが難しい類の話だといえば、理解しますか。」

「ああ……、成る程。」

見た目には何も異変の無い夜の吉原だが、ただの勘が“ここに何かがある”と言っている。

「少し離れていてください。」

男を一瞥すれば、そっと片手を伸ばし、外と吉原との境を通り抜けようとすると――

 

「これは――、」

 

指先が透明な壁にでも触れたかのように止まった瞬間、吉原一帯を囲むようにして薄い膜ようなものが現れのだった。

 

「な、なんだこれは……っ!」

「……触れても問題なさそうですね。何かを傷付けたり、害する意図はないようだ。」

 

突然現れたゆらめく膜を見た男はやや腰を抜かしつつも、ぺたぺたと自分で触れて確かめている。……意外と度胸のある様も頼もしいものだ。

「おお……なんとも奇怪な……、……いやしかし、これでは中に入れぬではないか。」

「ええ、通り抜けることは難しそうですね。」

男の言う通り、この結界のような膜は吉原を仕舞い込む箱のような造りをしており周囲からの侵入の一切を拒んでいるようだった。

一体どうしたものかと思案していれば、ふと、昼間に聞き齧ったとある話を思い出した。

「…………、そう言えば、最近はここ吉原で遊女らの失踪が相次いでいるとか。それに、渡し舟の物語――。」

「それがどうしたんだ。」

「丑三つ時に日本橋川の河原に行くと、恋焦がれた殿方が迎えに来て下ると……。丁度、今がその頃合いでしょうか。」

「……確かに、家を出たのが丑一つを越えたくらいだったか。しかし、それがなんだ……?まさか、あの話がどうって言うんじゃないだろうな。そもそも、こんな状態じゃあ日本橋川には行けんだろうよ。」

「さあ……、どうでしょう。確かにこちらから吉原に入れないのであれば逆も然りと考えるのが自然ですが……。しかし、全くもって関係がないと切り捨てるのは些か早計かと。道理が通じないのが常ですから。」

そう言えば、男はぺたぺたと膜を触っていた手を下ろし、溜息を溢した。

「……分かった分かった。こういうのは貴方の領分だ。それで?俺は何をしたらいいんだ。」

「…………、待ちましょうか。」

「待つ?何もせず?いいのかいそれで。」

「ええ。人ならざるものの介入が疑われる事象に関して言えば、限定的な条件下でしか起こらないとされてる場合――ここで言えば“丑三つ時”に当たりますが、これがより狭い範囲に制限されているほどに、その条件だけはどうしても介入できないことが多い。……それに、現状単なる壁でしかない可能性もありますし、私の早とちりであれば尚更――、下手に手を加えて、決まり事を捻じ曲げてしまうことの方が怖いですから。」

そこまで言って、もう一度、揺蕩う膜癖に手を添える。

(尤も、“これ”が絡む事象に人が巻き込まれているとするのなら、失せた人……遊女らはもう――。)

「……そういうものか、承知した。」

ふむ、と物分かりよく頷いて見せた男に、こちらも頷き返した。

 

「では、私は念のためこの周囲を一周見てきます。あなたはここで門の状態を見ていてください。きっと危険はありませんから。」

「おいおい……、きっとじゃ困るんだがねぇ……。」

            

瞳を閉じれば、再びあの温かな暗闇へと戻ってきたようだ。結局、今しがたの体験はなんだったのだろう。ともすれば夢とも思えるようなものであったが、手のひらに感じる固い感触がそうではないと訴えていて。

そう——、光源が無い筈のこの空間で唯一、彼女の物であった錫の玉簪がうっすらと青白い光を放っていたのだった。

 

外の世界へと戻るには一体どうすればよいのか。出入口も扉も見当たらず、そもそも地面の感触すらないこの空間で、果たしてどこへ向かえば。そう考えあぐねていれば、玉簪の光が強くちらついた。

 

————ここは出口も入り口もないけれど、“思い描いた場所”へは行ける。姐さん、強く願って。

 

それと同時に、何処かからあたたかな声が聞こえたような気がして。

 

(お菊……、……うむ、わかった。)

 

戻りたいと願うほど、自分にとって良い世界ではないのかもしれない。しかし、虚ろの夢を見続けるくらいならば、わっちは————

簪を握りしめ、瞳を閉じて思い描く。非情で窮屈なあの世界を……。

            

 

 

 

丑三つ時が開ける頃。

門前で待ち構えていれば、想定していた通りこちらを阻んでいた膜壁が溶けるようにして消えた。そして、それと同時に視界に飛び込んで来たのは、丁度門の真下――つまり私達のすぐ足元で倒れ伏す女の姿だった。

雪を被り、ぴくりとも動かないその様は死人と言うに他ならず。

血液が染み込んだのだろうか、周囲よりわずかに濃い色をした地面が絶望的な様を物語っていた。

 

「なっ、おい、人が――あ、アンタ、大丈夫か!」

声を荒げて駆け寄る男がその身体を抱き起せば、顔を見て驚いたように瞳を見開き、

「つ、椿ちゃん!」

聞き覚えのある名を悲痛な様で叫んだのだった。

「椿……、あの時の。」

 

つい先程宴会の席を共にしたあの芸者か。彼女との接点を作りたいとは願っていたが、よもやこのような形になるとは。

 

男の隣に屈み、事の次第を解き明かす手掛かりが残されていないかと地面に投げられていた片手を掬い上げた。まだ乾ききっていない血液のこびりついた痛々しい腕。*寸の脈は一切触れず、これでは心の臓も止まっているだろうと察される。

残念ではあるが、こうなってしまえば手の施しようがなかった。

 

「……私の治癒の範疇を超えています。痛ましいですが――、」

 

その時。

————どくん、

脈動のような、空気の震えを感じる。

つい今しがたまで冷え切っていた空気の中に芽吹きのようなあたたかい風の流れを感じたのだ。そして、それは倒れ伏す彼女からだった。

 

「すみません、失礼————」

再び彼女に触れれば、そこには先程まで感じなかった拍動が僅かに戻っていた。

(これは一体……。いや、そんなことはいい。)

彼女の傷へと手を翳し、妖力を流す。

「……まだ助かるかもしれません。傷は直ぐに塞がるでしょうが、失った血と冷えた体をこの力で癒すことは難しい。あなたの伝手で、何処か部屋を用意していただけませんか。」

「あ、ああ……、椿ちゃんを助けてやってくれ……!」

人の命はどれも重いものであるが、その重みは等しくないのが真実。彼女の力は稀有なもので、私たちが必死に探している存在でもある。なんとしても、生かさなくては――。

​​[ 用語 ]

*脈診(寸の脈):東洋医学における病態の診断手法のひとつ。寸の脈は心臓の動きを見るとされている。

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