
朧ゝ夜行 -長夜綴り-
『海石榴』
時期:3年前の冬。 視点:椿
————身体が重い。身を起そうとすれど、それが億劫になるほど全身が鉛のようで、この体は最早自分のものではないのとすら思えるようだった。
瞳だけで周囲を確認すれば見慣れぬ景色が広がっていて、ただ、枕元にはこちらに寄り添うようにしてお菊の簪が置かれていることだけが分かった。
(あれから一体何が――。)
『入りますよ』
やっとの思いで身を起し簪を手にぼうっとしていれば、襖越しにどこか覚えのある声が聞こえた。身構える余力もなくそちらの方を見つめていれば、横開きに開かれた襖の奥から見覚えのある顔がのぞいたのだった。
「……おや、お目覚めでしたか。」
「ぬしは……、」
そう、記憶にある最後の晩、宴の席を共にした男――確か、名を九条と言った筈。
男の月が浮かんだような白藍の瞳が穏やかに細められ、凪いだような、労わるような顔でこちらを見た。
「私は九条と申します。先日ぶりですが……、あの晩のこと、覚えておいでですか。」
“先日”
この言葉から察するに、自分は何日か眠っていたのだろう。
「あの晩……、」
そう言いながら、握り込んでいた簪に視線を落とした。あの夜のことは覚えているのだが、しかし、一体何が起こったというのか、さっぱり理解ができていなかった。考え込んでいたこちらを見て何を思ったのか、九条という男は眉を下げて困ったように苦笑を浮かべたのだ。
「すみません、ことを急いてしまいましたね。……お茶を淹れてきましょう。それから、あなたが許して下さるなら、少しお話をしませんか。」
「ああ……、」
頷いた男は静かな動作で部屋を出て行った。部屋に残されたのは柔らかな白檀の香りと、理由の知れぬ物悲しさだけだった。
「それで……、わっちはどれほど眠っていたのじゃ。」
湯呑から伝わる温度が冷えた指先をじわりと温める。
「丸二日です。あの晩を含めて数えると……、三回夜を迎えての今朝です。兎も角、無事に目が覚めて良かった。身体は大丈夫ですか。」
ゆるい笑みを浮かべた九条に、そう言えばと思い出す。確かあの晩、自分の片腕は引き裂かれた筈。また想像するに、吹きさらしの寒空の下で意識を失ってしまったのだろう。しかし、怪我はおろか霜焼けの一つもない綺麗な指先に首を傾げつつ、湯呑を握ったままの両手を掲げて見せた。
「ぬしがこの腕を?」
「ええ。きっとあなたにも覚えがあるでしょう。人の道理で説明のできない、摩訶不思議な力。……あなたへ施したものが、私の力です。」
「そうか、かたじけないのう。……あの夜、一体何が起こっていたのか、ぬしは知っておるのか。……お菊——わっちと共にあの宴に出た女子じゃが、……彼女は。」
湯呑を盆に置いて、九条を見直す。こちらの問いに男は少し引き締まった顔をして、佇まいを直せば口を開いたのだった。
「……申し訳ありませんが、あなた自身に何が起こっていたのかは分からないのです。……ただ、あの晩――丑三つ時の間のみ、吉原の区域は結界じみた何かで囲われおり隔離状況にあったようです。これについては、後の夜にも同刻に同じ事象が発生していたのであの夜だけが特別だった訳ではないようですが……。」
そこまで言って話を区切った九条は、少しだけ言葉を吟味するように間を置いて、話しを続けた。
「それと、吉原を大門から出て真っすぐ進んだ場所にある浜町川……、そこから向かって日本橋の方角に登っていった辺りで、複数名の女性の遺体が引き揚げられました。身元の確認が澄んでいないもの、難しいものも多かったようですが……、皆吉原に由縁がある者で間違いないだろうとのことです。そして、その中にあなたのおっしゃるお菊さんも。」
「……そうかえ。」
なんとなくそんな気はしていたのだが、はっきりと伝えられると堪えるものがある。そんな此方の気をしってか、顔を伺うようにこちらを覗き見る九条に話を続けてくれと促せば、彼は小さく頷いて口を開いた。
「現状身元が分かっている人たちは皆、件の噂――渡し舟の物語が語られるようになって以降に失踪をしていた遊女や芸者だそうです。……ここからは少し話の筋がそれてしまいますが、続けても?」
目覚めたばかりのこちらを気遣っているのだろうか、何度も様子を伺う九条に頷き返せば、彼は話を続けた。
「……今回の件、女性たちが単に川へ身投げをしたとするには不可解に思えました。ですから、あなたが眠っていたこの二日間吉原周辺を調べていたのですが……。どうやらあの地には、怨霊と土地神の間のような存在――人ならざるものが根ざしていることが分かりました。そして、恐らく吉原の大門がその存在の領域と現世の出入口になっているようです。恐らくは、失踪者はこの領域に迷い込んだということだと想像されますが……。ここまでを聞いて、なにか思うことはありますか。」
突然聞かされる情報の波に思考がまとまらないが、それでもあの夜の経験を必死に思い出し、考える。
「……確かに、あの夜のお菊はまるで何者かに誘われているようじゃった。……それに、わっちはあの時、この世とは異なる空間に迷い込んだような気もしておる。ただ――、向こう側で見た皆は、……幸せそうじゃった。あれがぬしの言う人ならざるものの力だとしてじゃ。しかし、あれは……、人の切な願いから作られたもののように思えたのう。」
そこまで言って、自分で虚しさを覚えたのだ。あれが人の————女達の願いからなされた幸福な世界なのだとして。しかし、現実の彼女らはみな”死“という終わりを迎えているのだ。『現実での死』『虚ろの中の幸福』これを並べたときに、どちらが良し悪しと言い難いことに気が付いてしまったのだった。
「そうですね。実際に、吉原を囲う人ならざるもの——その実態は掴めませんが、悪戯に他者を害する気はないようにも思えました。……しかし、確かに人は死んでいる。語られる物語に夢を見ただけで、まさか命を失うことになるとは想像していなかった者も居るかもしれません。」
そういった九条は、再び眉を下げて困ったような顔をして見せた。
「生きることが幸福だとか、死んでしまうことが不幸だとか、そういったことを乱暴に決めつけたくはありませんが……。しかし、私は死の向こう側に救いを求めるしかないこの世を変えたいと願っています。それに、現実的な話として、ここ最近になって人ならざるもの達が力を強めていることが今回の原因の一つになっているとも思います。人々の語る物語、恐れ、信心……それらが重なった結果、具現化してしまったのでしょう。ですから、太平を取り戻せば、きっと——」
九条はそこまで言って、はっとしたように口を閉ざした。
「……すみません、つい、話し過ぎてしまいましたね。」
「いや、ぬしの思うところは理解できる。わっちは虚ろの世界を見たが、その場所がまこと幸せなのかどうかはわからぬのじゃ。……じゃが、あの場所へ安寧を求める者を否定もできぬ。」
あの時、お菊は『虚しさに蓋をして生きる』と言っていた。生も死もなければ、輪廻もない虚ろの世界で、延々と虚構の夢を見続ける。そんな在り方が、果たして————。
答えを求めていた訳ではないのだ。ただ、徐に男へ視線を向けただけなのだが、彼は何等かを決意したような瞳の色をしていた。
「……では、私と、私達と共に、答えを探しに行きませんか。」
「答え……、」
「……実を言うと、ここからが本題でして。」
苦笑交じりにそう言った九条は、どこからか一通の書状を取り出した。
「これは?」
「神薙というものを耳にしたことはありますか?」
「かんなぎ……ああ、客が話しているのを聞き齧ったことはあるのう。して、それが——。」
「この書状には、主上より賜りし詔が記されています。この世の平穏を取り戻すためにあたなの力をお借りしたいと、そのような内容です。」
神薙……自分が持つような不思議な力を持つ人を募り、主上<天皇>の名の元に組織を編成しているのだと、そのような話だったろうか。
「あなたのお力を、どうか……この世の為に賭してくださいませんか。」
「じゃが、わっちは……。」
言わずもがな、吉原の人間だ。買われたあの日から、それはずっと変わらない。死ぬまで変えられない筈だった。
再び、手にしていた簪を見つめる。鈍色の光を放つそれは冷たい色をしているのにも関わらず、確かにあたたかみを感じるのだ。自分はこれに恥じない生き方をしたい。この狭い籠から外に出てみたい。彼女が願った自由を——。
「……大丈夫。あなたが手を取って下されば、あとはこちらが力を尽くしましょう。」
この世界ではそう長く生きられるものなど居ないものだから、先のことなど深く考えたことがなかった。必死に日々を生きて、あてがわれた籠の中で、不意に差し込む僅かな光の筋に瞳を細めてばかりで——
「うむ、あい分かった。」
何とでもして見せると言いたげに力強い光を潜ませた瞳がこちらを見据えていて。それに促されるようにして、頷いたのだった――。
『海石榴』-後編 終
【海石榴/つばき】椿の別名。海を越えて渡ってきたとか、花びらが波しぶきのようだとか、色々と解釈はあるようだ。古来より椿はその儚い美しさから「無常」を象徴する花として使われることが多い。