
朧ゝ夜行 -長夜綴り-
『海石榴』
時期:3年前の冬。 視点:椿
辿り着いた場所は上も下もない暗闇であった。
しかし、不思議と恐怖はない。あたたかなものに包まれて、ふわりふわりと何処かを漂っているような――。
……そう、つい先程まで感じていた腕の痛みはなく、ただ、安らぎの中に居た。まるで私の帰る場所はここなのだと思えるような居心地の良さに、母の腕の中はこのような心地なのかもしれないと記憶にも残っていない幻想を描く。
「――さん、……姐さん、」
(……この声、お菊……?)
その声を知覚すると、目が醒めたかのように視界が白んで――、
はっと気が付けば、見慣れた置家の私室に居た。そして、膝を付き合わせて向かい側には、お菊と男が座っている。二人は仲睦まじい様子で寄り添っており、その間柄を深くは知らぬ者からも、大切に思い合っているのだろうことが容易に伺えることだろう。
「……姐さん、長いようで短かったけど、お世話になりました。」
綺麗に重ねた両手を畳へ添わせ、深々と頭を下げたお菊。
「わっちは何も。……幸せにおなりよ、お菊。」
そう、今日はお菊が身請けをされる日で――
「はい……!姐さんも、どうかお元気で。」
気恥しそうにはにかんで見せた彼女の表情は、年相応に愛らしいものだった。
それから隣の男とも何か言葉を交わして、そうしていればいたく機嫌の良いお母さんがやって来て。置屋の親しかった者らとも別れの挨拶を済ませれば、彼女はうっすらと涙を浮かべながら、それでも笑顔で去っていった。
————頭が痛い。
まだ何か言いそびれたことがあるような気がして、速足で彼女の後を追う。大門までの道すがら、男と並ぶ後ろ姿を見つければ名前を呼んだ。
こちらに気が付いたお菊は眉を下げて、男に何やら言葉を掛ければこちらに駆け寄ってきた。
「どうしましたか、姐さん。」
「……、」
自分でも自分が何を伝えたいのかよく分からず言葉に詰まるこちらの様子を見れば、お菊は少しだけ迷うように瞳を揺れさせるも、口を開いた。
「姐さん、私はあの門から出て行ったらもう戻りません。……私がそれを願ったから。でも――、姐さんはきっと、迷ってしまったんですね。」
「お菊、おぬし、何を……。」
「姐さんは、分かってる筈です。だって、私よりずっと聡いじゃないですか。」
要領を得ないことを話し続ける彼女は、徐に自身の髪を結わえていた簪を外した。見慣れた錫の玉簪だ。
「これを。……私は一緒には戻れないですけど、きっと……姐さんのしるべに。」
「ぬし、先程から何を言っておるのじゃ。」
彼女があまりにも真剣な顔をしているものだから、まるで餞別にとでも言いたげに向けられた簪を流されるままに受け取って。
「……綺麗で、頭が良くて、お話しも芸も上手で、いつだって格好良い姐さんが大好きです。ここは優しくて暖かい世界だけど、同時に凄く虚しい所でもある。私たちはその虚しさに蓋をして生きるけど、姐さんは……、そんな風に生きないで。どうか、自由に生きて。」
「お菊……。」
彼女の言葉を反芻しようとすると頭が痛む。まるで、深く考えるなと警鐘を鳴らすかのように。
「大丈夫ですよ。――あ、丁度、外からの迎えも来ているみたい。……目を閉じて、あとは迷わないで。」
自分よりもやや下の位置にある丸い瞳が、眩しいものを見つめるように細められて。
小さく、あたたかな両手が頬に添えられた。
「姐さん、お元気で。」
その言葉に導かれるまま、そっと、瞳を閉じたのだった。