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『海石榴』

時期:3年前の冬。 視点:--

重苦しい雪雲に覆われた空には、月はおろか星の欠片も覗きはしない。

 

足先から凍えるような夜だからか眠りは浅かったようで、消し忘れていた行燈の油がはぜる微かな音で目が覚めたっきり、一向に寝直せる気配がしなかった。

何度か身動ぎをして、いい加減に眠ることを諦めようか……なんて考えていれば、不意に————キイ、と。襖越しに床板が軋む音が聞こえた。

 

(日の出にはまだ随分早かろうに……。)

 

普段であれば置屋の誰かが厠にでも行ったのだろうか、なんて気にも留めない些細な音。しかし、ここ最近巷を騒がせている“渡し舟の噂”と同僚の失踪の件もあり、どうにも嫌な想像ばかりが膨らんでしまって。

(事実どうであったとて、わっちには関係のないこと……。)

そう思えど、身体は自然と動き、手ごろな羽織を肩から羽織れば音の後を追いかけたのだった。

 

            

        

     

吉原を離れてはや数刻。すっかり丑の刻だと言うのに宿—関係者の家宅だが―にたどり着いたのは先ほどの事で、行儀よく纏っていた着物を緩めれば、ひとり息を吐いた。

(まったく、あの男には調子が狂わされますね……。)

 

と言うのも、吉原から宿への道すがら酔いが回って上り調子となっていた件の男はさも当然のように二件目へと足を向け、更に酒を煽り——……今に至るのだ。尤も適当にいなして離れることは出来ただろうが、普段相手取っている要人らと比較をすると大分あっけらかんとしているその人となりに好感を抱いていたことも事実だったものだから、どうにも断り難かったのだ。

「だとしても、夜遊びが過ぎるでしょう……。」

あの男の親族だと言う邸宅の家人は親切に風呂や寝具の支度をしてくれたものの、本音を言えばこのまま眠ってしまいたい疲労感だった。

            

 

軋んだ足音を辿って行けば、外へと続く置屋の扉がうっすらと開いていた。

(やはり……、誰かが抜け出したのじゃろうか。)

誰であろうとこんな夜更けに無断で外出など碌な理由ではないだろう。それに、近頃吉原で語られている”あの噂”もあいまって、不吉な予感に思わず眉を顰めた。――実際のところ、件の噂の真相は『遊女の脚抜けを手伝っている誰かが居る』ということだろうと見当がつけられているのだが、それにしたって明るい話ではない。

いずれにしても、知られてしまえば折檻ものだと言うのに、そんな危険を顧みない無謀ものとは一体誰なのか。

面倒事には触らぬのが吉。やはり寝付けなくとも布団に潜っていることが正解だったかと己の選択を顧みれば、扉の隙間——向こう側の道に、鈍く白む何かが落ちていることに気が付いた。

(はて……、あれは——)

開いた隙間を閉じようと扉に手を伸ばしたのだが、どうしてもそれを見過ごしてはならないような強迫めいた気持ちが込み上げてきて。宙に留まっていた片手をそのまま伸ばせば、僅かな隙間を押し開いて、真夜中の世界へと飛び出した。

 

「こ、れは……」

拾い上げたのは、決して高価ではない、しかし、見慣れた錫の玉簪。昼間も”彼女”はこれを結わえた髪に挿していて、撫でた指先に触れた感触が鮮明によみがえった。

 

「まさか、お菊——、」

はっとして道の先へと視線を向けるも人影はなく。ただ、握り込んだ拳を見つめて、どうしたものかと思案する。

彼女がどんな選択をしようと、それを咎めるつもりはないのだ。ただ――、いつかの昔、彼女がまた吉原に来たばかりの頃。質素な着物を身に纏い、一銭たりとも持っていないだろう彼女が故郷を懐かしむような顔でこれ眺め、大切そうに懐へとしまい込んでいたのを目にしていたから。

根拠はないが、これが彼女にとってかけがえのないものだと言うことは知っていた。

 

「あやつはほんに……、」

ここ<吉原>から出るのであれば、向かう先は一つだけ。大門の方へと足早に駆けたのだった。

急ぎ足で門前へとやってこれば、そこには見慣れた一人の少女が立っていて。一瞬声を張りそうになったものの、その後ろ姿に小さな違和感を覚える。

どこか足取りのおぼつかない彼女は緩慢な動作で門を潜り抜け――、

姿を消した。

 

文字通り、姿が消えたのだ。それを理解した瞬間、ぞわりと背筋が粟立った。大門を抜けたとて向こう側には川まで続く真っすぐな道が伸びている。つまり、“姿が消える”なんてことは起こり得ないのだ。

状況を理解するよりも前に駆けだして、先程まで彼女が居た場所へと片手を伸ばした。

「――っ、な、」

 

するとどうだろう。伸ばした自分の腕も袖口も、丁度門の真下を境に“向こう側”に在る筈の部分が綺麗に消えてしまったのだ。いや――、消えてしまったという表現よりも、見えなくなったと言った方がよいだろうか。感覚はあるようで、向こう側の湿ったような空気を感じる。

「これは一体なんじゃ……っ」

ぬるま湯を腕でかき混ぜているような感覚だけがして、その奇怪さにぞっとすれば、腕をこちらに引き戻そうとし――

 

「っ!」

 

刹那、存在するのかも分からない片腕に引き裂かれるように痛みが走った。

次第にこちら側に見えている袖が黒々と染まっていき、どうやら出血をしているようだと悟る。その境にはまるで返しがついているかのようで、奥へは容易に進めど、こちらへは引き返せないような造りになっているのだろう。痛みから逃れようと身じろげば、そのままずぶずぶと見えない向こう側に沈んでいくのが分かる。

 

「お菊!お菊!聞こえておらぬのか!」

時間も体裁も気にせず声を張るも返事はなく、ただ、このままでは血が失せて死ぬか、寒さで凍え死ぬかの二択で。

 

(……行くしかない。)

 

小さく息を吐いて、見えない向こう側へと足を進めたのだった。

 

            

「――――、」

深夜。

窒息をするような、溺れているような感覚に苛まれ、目を醒ました。

 

乱れた呼吸を落ち着けるようにして片手を胸へと添わせ周囲を一瞥するも、何の変哲もないあてがわれた部屋だ。

あの男に勧められるまま酒を煽ったせいだろうか、頭がぼうっとしているものだから、それを振り払うように頭を振った。

————その時。

先程までの不快感を優に超える、肌が引きつる程の“嫌な気配”が一瞬、風が吹き抜けるように通り過ぎた。

 

「っ、一体、何処から……。」

 

並みならぬ気配ではあったもののそれは一瞬だけのもので、例えるならば何かを咎めようと一瞥したその時の視線の鋭さのようなもの。あるいは……、拒否、拒絶の心のようなものにも思えた。しかしながら、それは自分に向けられたものではなく、傍から感じ取ったようなものでもあって……。

つまり、察するに誰かが何らかよからぬことに巻き込まれている――もしくは、引き起こしているということだ。

 

(……微かな気配を感じ取れたということは、ここからそう遠くはない筈。)

 

感覚的にことが起こっている方角は分かる。

誰が何をなどということを考えるより先に、本能が感じ取った感覚を忘れる前に、追わねば————。

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