

朧ゝ夜行 -長夜綴り-
『秋水』
時期:2年前の秋。 視点:九条→常葉
————想定通り、事態が一変したのはあくる日の夜のことだった。
今回の旅路においては都合よくも壬生が”視て”くれていたもので、大方予想は付いていたのだ。彼から得た断片では、『刀を携えた女性』が重要人物であること、また『御前試合は何らかの問題により取り止めになる』ことが分かっていた。後に分かったことであるが、彼は玖香との出会いも予見していたようで、その夢見は侮れない。
(前回に倣えば、彼女もまた神薙たる資質を持つもの……、いや、それは楽観視しすぎでしょうか。)
希望的観測を大いに含んでいる思考には自嘲のような笑みも漏れるが、彼女の纏う気配にはただ人ならぬ存在感があるのだ。壬生、玖香にしてもそう。どこか不思議な気配を漂わせている。ともすれば、妖力を持つ者同士は無意識下で惹かれ合う素養でもあるのだろうか、などと思いもするが、それであれば長きにわたる縁があった葉室は……いや、あれは誤魔化しが上手いのだろう。
そんなことを考えながら、本丸に張った結界を確認しつつ夜の庭を散歩していれば————
不意に、それは来た。
『————』
おおよそ言語的表現のできない不協和音。次いで、反響する“破られた”感覚。
そう、なんの予備動作……助走ともいえる攻撃の気配もなければ、いとも容易く結界が破られたのだ。
「……っ、来たか。」
それらを知覚すると同時に気配の発信源、試合の会場でもある南広場へと急ぎ向かった。
*
虫の声ひとつ響かない静かな夜だった。
月が放つ淡い白光だけが広場の白砂を照らしていて、どこか幻想的ともいえる景色。
だが、この心は静まるどころか焦燥感に近いものすら抱いていたのだった。明日にはここら一帯が武術者らで埋まるのだと思えば感じる、その輪に加わることのできない自分自身へ対するもどかしさなのかもしれないが。
(ワタクシも、いつか……。この、父上の刀を————)
あるがままの姿で振るってみたい。
そう思いながらするりと刀の柄を撫でた、その時。
「……!」
肌を刺すような鋭い気配を感じて、咄嗟に姿勢を低くして刀の柄に手を掛ける。次いで、目の前の夜空が真っ二つに裂けたかと思えば、その裂け目からは黒々とした靄に紛れて幾匹かの化け物と、その後から一人ぶんの人影がゆったりとした動作で進み出てきたのが分かる。
「……このような夜更けに、一体どなたでしょうか。」
普段よりも幾分か冷えた声音でそう問えば、ほどけていった靄の奥からは見覚えのある姿形が浮かび上がってきた。
「やあ、娘さんじゃあないか。」
その人物から発せられた聞き覚えのある声。この男は————。
「アナタは……」
「久方ぶりだね。」
薄明りが照らしたその者は、先日食事を共にしたあの男に違いなかったのだった。
「さ、僕は用があるからね。キミ達は好きにしてくれ。」
その男はなんてことない様子で、まるで引き連れていた化け物たちの手綱を手放すかのように軽く手を振り、それを合図にと放たれた幾匹かの化け物は近場の建物に喰らいつけば、めきめきと音を鳴らして破壊していく。
人の成りを取っておきながら、”真人間”がするとは思えないことをしてのけているのに、目の前の男は清々しい様子で笑顔を浮かべればこちらへと向き直った。
「何となくだけどね、キミとはこうして再会をすることになると思っていたんだよ。」
「アナタは一体、何者なのですか。」
此方の問いに、愉快そうに唇を歪めた男は片手を胸元へ添えれば言葉を続けた。
「このなりのことかい?そうか、自己紹介をしていなかったかな。“これ”は名を速水与一と言ってね。もうずいぶんと昔に死んでしまったのだが———。」
要領を得ない話を楽し気にする目の前の存在に、生理的な不快感が湧きあがる。
「丁度この姿にも飽いていてね。そろそろ衣替えでもしようかと思った頃合いさ。運よくキミを見つけたのは。」
そう言いながら男は自分に纏わりつく皮でも剥くかのような動作で自身の顔面に指先を突き立てれば、上っ面を剥ぎ落していく。解けるように、溶けるように消えて行った断片から覗き見える悍ましい肉は黒々とした液体を滴らせ、骨の軋む音を鳴らしながらその姿を変容させるだろう。
『うん、やはりこちらが落ち着くね。』
凡そ人間とはかけ離れた姿———額に生える二本の角は、“鬼”と呼ぶに相応しいが——へと変わり果てた男は、数度首を鳴らせば、能面のような顔をこちらへ向けた。
「ワタクシの問いにお答えくださいませ。あなたは何者で、ここへは何をしにやって来たのです。」
『……羅刹。キミら人間は僕らのことを“人の血肉を好む悪鬼”の羅刹と、そう名付けてくれたんだろう?はは、間違いではないが趣味が悪いね。』
「目的は。」
いつでも刀を引き抜けるように、柄に触れる掌に力を込める。
『なに、ちょっとしたお使いさ。荒事は極力控えるようにと言われているから、キミがその刀を抜かないのであれば、こちらも大人しくしていよう————と、思ったけど。』
言葉とは裏腹に、目の前の悪鬼は自身の刀へと手を掛けた。
『仲間内でも変わり者だと言われているんだけどね。僕は単に貪り喰らうだけでなくて、より技術の優れた武術者と刃を交えることが好きなんだ。』
そう言えば、白刃を引き抜いて。
『そう————、そうなんだ!刀を交え、よもや相手が自分の命を狩るのではないかと思えるあの瞬間こそ、最高に“生きがい”を感じるんだよ!まったく、長く生きるが故に、日々退屈なものでね……分かるだろ?』
感情の上下が激しいその様は人の形を保っていた時に抱いた印象とは全く違っていて、この生き物は本当に”人ならざるもの”なのだと自覚をするとともに、この身を緊張感が走る。
『うん?キミは抜かないのかい。それなら————』
言葉を聞き終える前に、姿が視界から消える。否、駆けたのだ。そうして辛うじて視界に収めた彼方の刃がこちらの脇腹へと迫り————……
————ガチン、
物体同士が強い力を持って擦れ合い、閃光と共に歪な音を鳴らした。
『あれ、』
相手の間抜けな声を気に留めず、そのまま一歩踏み込み、体重を乗せて“それ”を振りぬいた。浅く肉を捕えた感触と僅かに空気を飲む音に、仕留めそこなったことを後悔しつつも一歩飛びのいて。降りぬいたそれ<大鎌>を再度下段に構えれば、目の前の鬼を見る。
驚いたように動きを止めた鬼は自身の傷口へ片手を当て、滲み出た体液をまじまじと見つめては愉快そうな声を上げた。
『はは、驚いた。キミ、それは……大鎌?』
「ええ、見てお分かりになるでしょう。」
『そりゃ……想定外だったね。うん、僕の思い込みが悪かったようだ』
あの鬼が距離を詰めた瞬間、刀と鎌の間合い差を利用し持ち手部分で受け流したなら、そのまま相手の想定外の位置にあるだろう鎌の刃で刈り取ってやるつもりだったのだが。どうやら初手のみ有効の一撃必殺とはならなかったようで。
傷口を抑えつつも笑い声を漏らした鬼は再度刀を構えた。
『間合いじゃあ負けるけれど。……それはちょっと、キミには扱いにくいんじゃないかな。』
言葉と同時に再度間合いを詰めた鬼は、そのままの勢いで数度斬り込みを入れる。殆ど勘頼りに角度を合わせ柄の部分で受け止めるが、攻撃に転じることができない。それも当然、この鎌は柄が長いぶん懐に入られた敵に対して極端に弱いのだ。
「ぐ、」
一度距離を保つ為に、相手が腕を引く動作に合わせて思い切り押し返したなら再び後方に飛びのいて。
『攻めに転じない限り、勝ち筋はないと分かっているだろう。』
くつくつと喉を鳴らしている鬼を見据えれば、大鎌を構え直し、呼吸を落ち着ける。いつ何時も冷静に。そう在らねば、見える勝ち筋も見紛うてしまうものだから。
『さ、一緒に楽しもう。やはり楽しみは誰かと分かち合ってこそだ、だからね。』
「……、」
そう言われてはたと気が付いた。未だ余裕ある振る舞いをするこの悪鬼に、この鬼の振るう刀を受ける度に、自分自身の心の奥底で震える、愉悦にも近いような感情が燻っていることを。
「……戯れは、ここまでにいたしましょう。」
この鬼が一体どれ程の人を傷付け死に至らしめてきたのかを思えば間違った感情なのかもしれない。しかし、昂る感情があることも事実で、これは最早剣士の性とも言えようか。
『うん、それじゃあキミから斬り込むといい。』
「……ふふ、それでは、遠慮なく。」
深く息を吸って、浅く吐き出す。そして、大きく腕を振るった。
お互いの武器が触れ合うたびに大鎌を構成する黒い霧のような物質が舞い、また鬼の刀は火片を放つ。繰り返す度にお互いを構成するなんらかを切り裂き、削り取ってゆく。——しかし、鬼のそれは此方の肉を断っているにもかかわらず、こちらの斬撃はそこまでに至らず。尤も、身体能力に長け、尚且つ異様なまでの回復力を誇る彼方には生物としての格が劣っているのかもしれない。それでも————。
大きく身を捩って刃をいなせば、次の一手で決め討つ心算で腕を引く。しかし、相手の方が少しばかり早く次手の予備動作を行っていて。であれば、肉を切って骨を断つのみ。昂った脳は最早俯瞰した思考を行えず、ただ目の前の敵を穿つための手段しか導かなかった。
『残念。』
互いの刃が迫る様子が不思議と酷く緩慢に見えて、ああ、これは不味いのかもしれない————……。
「常葉さんッ!」
『このお馬鹿。』
二つの声が重なって聞こえたかと思えば、迫りくる刃先は何かに弾かれるように軌道を逸らされた。
「……っ、」
状況を把握するよりも先に片手を地面へ突き体勢を立て直せば、鬼の周囲には先ほどまで見られなかった蛍火のような暗緑色の火が纏わりついていた。
『あーあ。心配になって来てみれば、やっぱり遊んでるじゃん。』
『おっと……、はは。うん、すまなかった。』
諫められているのだろうか。先程まであの鬼が纏っていた威圧感も鋭さも鳴りを潜め、その声音からも「しまった」と言いたげな情けなさすら感じられ。
『謝るなら最初からやらないでくれるかな。んで、これね。』
あれがもう一つの声の発信源なのだろうか。ふよふよと浮いていた幾つかの蛍火が集まって寄りを成せば、その灯の中から何かが形を成した。
興が醒めたのか、刀を下ろした男は片手を差し出して、それを受け取る。
『おや、流石だね。助かるよ。』
そう言った男の手に収まったのは、布都御魂剣——あの霊刀だ。
『助かるよじゃないよ、あなたの役目だったのに。まあいいや、それじゃあさっさと帰ろう。』
『……ああ、』
その言葉を最後に蛍火は淡く消えて行った。
また丁度同時に先程自分を呼んだ声——九条が隣に並び立って。
「至る場所に妖が……っ、兎も角、生きていてよかった。あの者は————、」
肩で呼吸を整えつつも険しい顔でそう言った九条を一瞥した鬼は、刀を鞘へと納めれば片手を振った。その動作に応じるようにして、周囲で好き勝手にしていた化け物たちは裂け目へと戻ってゆく。そうして全てが消え去った最後、後に続こうと後方を振り返った鬼は、ふと足を止めた。
『……そう言えば名を聞いていなかったな、娘さん。』
再びこちらを向いた鬼は、昼間の男の顔を張り付けていて。
「誠の剣士たれば、名乗りを上げよ。」
促すように片手を上げた男は人の良い笑顔を浮かべたまま、こちらを見据えている。
「……ワタクシは常葉の、————常葉、三郎左衛門にございます。」
「常葉三郎左衛門。その名、覚えておこう!」
「きっとまた会うぞ」と、悪戯っぽく笑って最後にそう言えば、男も亀裂の中へと消えていき、最後にはその綴じ目すらも跡形なく消えたのだった。
「……、」
一息ついて、血払いのように鎌を振るえば、霧散したそれを鞘へと納め。
「……常葉さん、一先ず傷の手当と、それから……事の次第を聞かせてください。」
「ええ、承知いたしました。」
こちらを案ずるように覗き込む九条に微笑みを返し、奴らの消えて行った虚空を見つめて。
”常葉三郎左衛門”
父と母からの借り物でしかこの名が、今この場で、確かに自分の一面として馴染んだ気がして。身体中を苛む鈍い痛みすらも清々しいものであるような、奇妙な心地がしたのだ。