

朧ゝ夜行 -長夜綴り-
『香車』
時期:3年前の春 視点:--
暫くそうして探していたが、目当ての鏡は見つからない。
互いに“なにもなかった”と伝え合おうとしたその時だった――
ドスン、と。
重量のある物体が落ちる音。
次いで、ガシャン、と。
部屋に並べられていた品々が床にぶつかる音が響いた。
「……っ、」
鋭く息をのんだのは九条だった。
「尊様!」
「問題ありません……!」
音の発生源へ迷わず駆けた葉室が目にしたのは――、
美しい女の上半身と、蛇のような下半身が合わさった……なんとも形容しがたい化け物。
そして、その頭部から伸びた艶のある黒い髪は九条の左腕に巻き付いていた。
「……全く、今日はこういうものに縁があるのでしょうか」
やや吐き捨てるようにそう言った九条は、胸元から抜き出した短刀で化け物の髪を切り落としながら前方を見据えた。
「それに……、どうやらあれは人の血を好むようですね」
そう言った九条を見れば、彼の腕からは血が滴っており、また足元に落ちている化け物の髪にも血液が伝っていたのだった。
軽く息を吐き、視線は化け物へ向けたまま言葉を続ける九条。
「あなたは自分がここから出ることだけを考えなさい」
「それは、」
「この宝蔵は四方を護符で覆っています。……あれも、そう簡単にここから出ることはできないでしょう。私は自分ひとりの身を護ることは容易で……」
その言葉を言い終わる前に、女と反対の方向から大きな物音が聞こえ、その方向を確認する間もなく二人は身体に強い衝撃を感じた。
「……ぐ、」
「――ッ」
大きな物音を響かせ、部屋に置かれた品々を身体でなぎ倒しながら固い床を転がる二人。
直ぐに身体を起して衝撃源へと視線を向ければ、そこには大きな百足のような化け物が無数の脚を蠢かせ、柱に巻き付いていた。
するすると小屋梁を伝って天井へと上った百足の化け物は、触角を揺らしながら二人を見下ろす。
「……最悪ですね」
「他にも居たか……ッ」
足元の悪い狭い部屋の中で、二体の妖怪。
そして、幸か不幸かあれらはこの宝蔵からは出られない。
袋の中の鼠であるのはどちらだろうかと、自嘲したくもなるもの。
端的に評しても、状況は悪い。
そんな現状を把握した九条は苦い顔をしていた。
自分がこの場へ連れてきてしまった葉室を安全にこの場から離脱させる。
そして、尚且つ自分ひとりでこの二体と件の鏡を片付ける。
これが叶えば御の字なのだが――少なくとも、自分にその力はない。
それをよく理解していたからだ。
守る、防ぐ、封じる。
そういったことには強くとも、争いごとに関してはめっきり弱いのだ。
そんな自分では、万事を成すことは難しい。では、この場に置いて捨てるべきは何なのか。
選ぶべきは――、
「尊様!まずは鏡を!その力で奴らが形を成しているならば、根本を叩きましょう!」
強く投げられたその言葉にはっとすれば、葉室は落ち着いた様子で刀を構え、言葉を続ける。
「私は問題ありません。勝算もあります」
鋭く、けれど、聞いた者を信じ込ませるような強かな声音。
その声に今は亡き彼の父親〈羽一〉の姿を思い起こし、どこか懐かしいものを見るように瞳を細めた九条。
そして、ふっと、軽く息を吐く。
「分かりました。あの女の方……見覚えがあります。きっと何処かに――」
話を遮るようにして響いた衝撃音。
前方を見れば、女がその蛇に似た下肢を床に叩きつけ、苛立ったように美しい顔を歪めていた。
化け物らは律儀にこちらの作戦会議を待ってはくれない。
目にも留まらぬ速さで、まっすぐにこちらへと向かってくる女の髪。
あわや二人のもとへ届こうとしたその髪を結界で弾き、九条は口早に話を続ける。
「何処かに、彼女の本体となる品とそれを映す鏡がある筈。私はそれを探します」
「では露払いは私が」
「ええ、頼みましたよ。それと、あの女。自身の髪づてに吸血をするようなのでご注意を」
「承知しました」
そう言い視線を交わせば、それを合図に結界を解いた九条と、駆ける葉室。
軽い身のこなしで攻撃を躱し、一つ、また一つと百足の脚を落としてゆく葉室に対して、思考を巡らせる九条。
“姿に見覚えのある女”。しかし、あの妖怪を見たのは初めてだ。
……すなわち、あの女の本体は像や絵など、容姿が表現できる様式で存在しているのだろう。
葉室に向く攻撃を遠方から弾きつつも、周囲に視線を走らせる。
すると、部屋に浮かぶ微かな明かりを反射して、薄くぼんやりと光る何か……。
そしてその付近に置かれているのは――あれだ。
川岸で髪を梳く、美しい女の描かれた掛け軸。
それを映している白銀の鏡。
「あれか……!」
すぐさま鏡の元へ駆ける九条。
葉室が化け物を引き付けてくれていることもあって、さして問題はなく鏡のもとへ
辿り着いた九条は、そのままの勢いで鏡面を床に伏せる。
鏡の持つ力によって具現化されているのであれば、少なくともこれであの女の方は消える筈。
――しかし、女の化け物は消えない。
相も変わらずそのおぞましい蛇のような体躯をうねらせる女を見て、九条は眉間に皺を寄せた。
「投影された姿は、もはや独立しているのか……」
つまり、鏡は異形の本来の姿を解放しただけであり、故に、鏡をどうした所でもはやあの女には関係ないということ。
……であれば、鏡に護符を貼ったところでそれも意味をなさないのだろう。
ならば――
と、残された可能性。
九条は女の描かれた掛け軸に短刀を突き立て、そのまま縦一直線に引き裂いた。
……しかし、なおのこと女が消える気配はない。
この掛け軸も、あくまで器でしかなかったということなのだ。
いよいよ力技頼りの道しかなくなったことを悟った九条。
「鏡も女の本体も――、」
駄目だ、算段が外れた。
そう伝えようと葉室の方を見れば――。