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​『曙』

時期:3年前の春。 視点:九条

そうしていれば、不意にイクルミサマが口を開いた。

「生食……、会いたい人が居るって言ってる」​​

『おや、それは一体?』

「人……?」

少年も初めて聞いたと言わんばかりに瞳を丸くして、イクルミサマへと続きを促した。

「でも、今のままだと此処から出られない。……そういうことらしい」

彼自身も的を射ない様子だが、しかし生食は”その通り”と言いたげに首を下げたのだった。

『ああ、そうか……。確か、生食は四十年程前にこの山で死んだ馬だった筈。麓の村に主人でも居るのかな』

「しかし、出られないとは……」

疑問符を浮かべるこちらに何かを訴えたいのか、ぶるぶると唇を震わせる生食。

「……杉?……杉が邪魔だとさ」

「杉……、……あの神籬は杉でしたが」そこまで言って、思い至る。

 

「あやかしとなったが故に神籬の結界を越えることができず、この山に閉じ込められていると……、そういうことですか」

そう言えば何やら興奮した様子で足踏みをする生食をなだめるように撫でつつも、イクルミサマが口を開いた。

「時間が経てばいずれ通れるようになるって言ってるけど」

「それはつまり……」

恐らく、この生食なるあやかしは、先程少年が語ったようにイクルミサマ経由で力を蓄え、あやかしとしてより強大な存在になった時に結界を破る算段だという話なのだろう。

しかし、それは——

「そういう話でしたら、やはり私は彼を滅しないといけない」

『……どうしてかな』

こちらの言葉に異を唱えるように、少年はやや視線を鋭くした。

「神籬の結界が破られてしまえば、外に出るだけでなく内に入ることも容易になってしまうでしょう。今のここにはあなた達のように穏やかな方々しか居ないかもしれませんが――、……出入りが自由になってしまえば、悪しき者たちにとって恰好の餌場になることは明白」

居るだけで力を得られる霊山を、狡猾な人ならざるものたちが見過ごす筈もないのだから。

『……確かにそうかもしれないね。でも、生食もまた僕の友人なんだ。むざむざ殺させるわけにもいくまいよ』そう言った少年の声は穏やかながらも威圧感を孕んでいて。

​​​

平行線の会話に成す術なく、ともすれば不本意だろうが力業しかないのだろうかと(そんなことをしてイクルミサマから協力的姿勢を得られるかも分からぬが)思考を巡らせていれば、何かを思い出したように彼<イクルミサマ>が口を開いた。

「骨……、身体……、眠ってるのか。……それを連れ出すのでもいいって」

「……?」

彼の発する単語が何を意味するのか分からず少年の様子を伺い見れば、彼の方は何かを納得したように頷いていて。

『それは妙案だよ、かなめ。生食の遺骨……それなら、結界をそのままに外に出られるかもしれない。生食はそれでもよいのかな』

そう言えば、同意を示すように蹄を鳴らして見せたのだった。

少年の言葉にとどのつまりを理解すれば、新たな疑問が浮かぶ。

「しかし、この広い山のどこにその遺骨が眠っているのでしょうか」

『かなめ、キミならその瞳で見つけられるだろう?』

「ああ、問題ないと思う」

​少年の言葉に頷いたイクルミサマは、生食の方へ向き直り口を閉ざした。

突飛な何かが起こる訳でもないのだが――、しかし、その姿には言い表し難い神聖さを感じ、彼が神として崇められていたという過去を納得させるだけの”何か”があった。

……きっと、彼はこの大地をめぐる妖力との親和性が高いのだろうと、そんなことさえも自然なことに思えてしまうような、何かだ。

暫くして顔を上げたイクルミサマは、一方を見つめ、指をさす。

「向こうだ」

端的な言葉は確信めいていて、疑いようもない。

​少年とともに頷き返せば、彼に続いて山の中へと足を進めたのだった――。​​​

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