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​『香車』

時期:3年前の春 視点:--

――三年前。

 

春の陽気に充てられ微睡みに沈みたくもなる季節だと言うのに、ここ〈御所〉では人々が慌ただしく集っていた。

かく言う自分も朝廷に属する一族の当主としてこの場に招集を受けた訳だが、事の次第は理解しておらず。

なんでも『幕府と朝廷が手を取り、共に新しい政策を運用する』とかなんとか、そういった話らしいが、そんな信憑性に欠ける話を鵜呑みにすることも憚られ。

一先ずは、ことの発端らしい人物――『九条尊』がやって来るのを待っているのだった。

 

見知った顔に軽く挨拶を済ませて大人しくしていれば、すっと襖の滑る音がして、その奥からは件の人物、九条が顔を覗かせた。

 

「皆様、ご足労いただきありがとうございます」

 

ゆるい笑顔と共に現れた彼は、記憶の中の姿よりも幾分か顔色が悪く。けれど、大人びていたのだった。

 

 

            *

 

「――以上が、幕府側との取り決めとなります。人員の招集に関しては、是非皆様のご助力を賜りたいと考えておりますので……」

 

九条の口から伝えられた内容はこの場に集まった者らを驚かせるには十分すぎるもので、自分も例外ではなかった。

 

妖力を持つ人間に公的な役職を与えること、そして彼らによる組織を作り上げること。

そのこと自体に対する驚きは勿論だったが、何より、全てを具体的な政策に押し上げた彼の行動力や皆の前で語るその姿。それらに、なんとも形容しがたい感情を抱いたのだった。

 

――他者の為に身をすり減らすことは、果たして“善”と言えるのだろうか。

 

……そして。

今なお、こうして『黙っている』自分は、善と言えるのだろうか。

 

            *

 

会合が終わり、集まっていた面々もまばらに散ってゆく。

そんな中、不意に声を掛けられて足を止めた。

 

「久しいですね」

「……尊様、お久しぶりです」

 

先ほどと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべてこちらを見る尊様に、どうしてか居た堪れない気持ちになってしまって、視線が彼の肩を透かす。

 

「こうして顔を合わせたのもいつぶりか……少し、散歩でもしませんか。……ほら、中庭の桜が綺麗に咲いていますから」

 

そう言った彼が視線を向けた先には、日光を反射して眩しいほどの桜が咲き誇っていたから、ますます後ろ暗い気持ちになってしまって。

香車 3.png

「ね、どうでしょう」

「……ええ、承知しました」

 

そう答えれば、尊様は満足そうにまた笑って、庭の方へと足を向ける。

 

世間話から始まり、一族当主としての話や身内が持って来る縁談の話や、そんな取り留めもないことを話しながらあてもなくふらふらと歩いていると、ふと、前を歩いていた尊様の足が止まる。

 

「……次の羽一様の命日。私もご挨拶に伺ってもよろしいですか」

「勿論です。父上もお喜びになるでしょうから」

「……そうだと、私も嬉しいです」

 

それだけ言うと、また彼は歩き出す。

 

「……私、ずっと迷っているのです」

ぽつりと、零れた言葉。

「それは……、」

「何が“正しい”ことなのか。それが分からないから」

そう言い、今度はこちらを振り向いた尊様は、普段通りの笑みを浮かべている。

 

「ですから、私があらぬ方向に走ってしまいそうになったらあなたが叱って下さいね」

「その様なことは――」

「できますよ、あなたは。……分かっているでしょう」

やや被さるようにして放たれたその言葉の真意が掴めず、正しい返答が見つからない。

 

「羽一様はよく仰っていましたね。“自分の良心に従いなさい”と。私、この言葉がとても好きですよ」

「……」

「私は、私の良心に従って生きるとします。独り善がりだと、思われるかもしれません。結果として、誰かを傷付けることもあるかもしれません。きっと偽善でしょう。……けれど、自分の一生に悔いたくないのです」

そして、困ったように眉を下げて笑った。

「結局のところ、自分の為なんです。見捨てると後味が悪いから。できるのにやらないと、咎められている気持ちになるから。だから、手を差し伸べる。見ようによっては滑稽かもしれません。……けれど、やらない善より、やる偽善、ですからね」

 

そこまで言って、『さて、』と軽く腕を伸ばす尊様。

 

「助かりましたよ、万羽。ありがとう」

「……礼を言われるようなことは何も」

 

彼は自分の言った否定の言葉を聞くと、にやりと笑った。

 

「だって、私のぼやきを大人しく聞いてくれたから。付き合って下さってありがとう。……ああ、まるで壁に向かって話しているかのようでしたよ」

「壁……、」

 

では、と踵を返して中庭を出て行った尊様。

 

――そうだった。

彼は昔から“こんな人”だった。

周りが思うよりは無遠慮で、容赦がない。

そんな主人に対する溜息と、そして、いつまでたっても何も言えない自分への溜息を重ねて吐き出したのだった。

 

吐き出した空気の分だけ幸福が逃げるというならば、自分のそれは最早カラカラに干からびているのではないだろうか。

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