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『海石榴』

時期:3年前の冬。 視点:九条

「いやあ、遠路はるばるご苦労なことでしたな、九条殿。」

「いえ、つつがなく事が終えられたのもあなたのお陰です。」

 

東下の為京を離れてから暫くの後——。

寒さ故険しい道のりではあったものの、無事に江戸へと辿り着き幕府の要人との対談を終え、丁度その日の夕刻のことであった。

九条と並んで歩くのは江戸幕府とも所縁のある武家の男であり、宿の手配や様々な取次までもを尽力してくれた旧知の者。

 

「ところで九条殿。折角江戸まで下ってきたんだ、直ぐに京へ戻られる訳でもないでしょう。」

「そうですね……、馬や奉公人らを休ませる時間も必要ですから、数日はこちらに滞在する予定ですよ。」

 

そう答えるや否や、男は気の良い笑顔を浮かべてこう言った。

「それじゃあ貴方も暫くは羽を伸ばしたらいい。ここは一つ、今夜は江戸の花街を楽しむってのはどうだね。」

「…………、あなたは変わりませんね。」

……そう、この男は昔から好色であり、花街遊びを良く好んでいたのだった。それ自体をとやかく言うつもりはないが、付き合うつもりもない。

「いやだなぁ九条殿、これもまた男の甲斐性って奴じゃないですか。」

「生憎と、もう若くないので。疲れたこの身に酒の類は効きすぎるのです。」

そう答えると、今度は大げさに参ったような素振りをした男が溜息を吐いた。

 

「九条殿が江戸に来るというから、ここ最近の吉原でも一番の芸者を呼びつけたって言うのに。」

「…………。」

「芸者って言ったら三味線、舞、唄……。だがね、その子はまた違った摩訶不思議な芸を見せてくれるって言うんで、ここ数年は美人花魁にも引けを取らないくらい話題の的で——」

「……摩訶不思議な芸。」

「おっと、興味が出てきたか?何でも、触れたものを水に変えてしまうとか、そこにない筈のものを取り出してみたりだとか。」

したり顔の男が“こういうのは好きだろう”と、こちらを見つめる。上手い事流されてしまうのは癪だが、しかし彼の言う“芸”というものがどうしてか戯言の類には思えず、頷き返すしかなかった。

「……そう何度もお供しませんからね。」

「よし来た。店も取ってあるんだ、この足で向かえば暮れ六つ頃で丁度いいだろう。」

「なんとも用意周到でよろしいですね……。」

「はは、お褒めにあずかり光栄。それじゃあ……、冷えますからな、柳橋から猪牙舟<ちょきぶね>で行くのがよいでしょう。」

「ええ、そうですね。……念を押すまでもないですが、程々にしてくださいよ。」

 

分かっていると答える男の緩んだ表情に、寒さのせいだけではないだろう若干の頭痛を覚え、思わずため息をこぼしたのだった。

とっぷりと陽が沈んだ頃。

 

ここ、吉原の町並みは妓楼や食事処から漏れる灯や街中に掛けられている灯篭の明かりで暖かくも妖しげに彩られており、大門をくぐってすぐの通り<仲の町>は冬の夜とは言え人の往来はそれなりであった。

先導をしていた男は通り過ぎる妓楼の*張見世を眺めながらやいのやいのと批評をしているようだが、中身のないその言葉は右から左へと流れていくだけ。

そうしていれば、やがて目当ての*引手茶屋へたどり着いたようで、男がこちらを振り返った。

「さ、着きましたよ。」

そう言って店の敷居を跨いだ男は恐らく顔見知りなのだろう店の者といくつか言葉を交わせば慣れた様子で店の奥へと足を進めていく。

そうして通された座敷は美しい屏風や豪奢な行燈で彩られており、あまり居心地の良い場所とは言い難かった。

 

​(……さて、何か収穫があればよいですが。)​​​

​​[ 用語 ]

*張見世(はりみせ):妓楼に作られている、通りに面した格子越しに遊女の顔を見ることができる部屋。

*引手茶屋(ひきてぢゃや):遊郭に入る前に遊女を指名し、まずは接待を受けるお店。客と遊女を引き合わせる場所であるが、芸者らを招いて要人の接待や酒宴の場、密談の席としても利用されていた。

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