
朧ゝ夜行 -長夜綴り-
『香車』
時期:-- 視点:--
ぱちん、ぱちん。
駒が盤を打ち、乾いた音が響く。音の間隔は一定の拍子を刻んでおり、そこには一切の弛みがない。
盤を挟んで向き合った二人――九条尊と葉室万羽は、その表情に少しの迷いも滲ませることはなかった。
「……大和の國はどうでしたか」
ぱちん、
「幸い、人死にはなかったようです。話に挙がっていた妖も下級のものでした」
「そうですか。それは何より」
ふっと、笑顔を浮かべるのは九条。
ぱちん、
「あなたが不在の間、こちらは変わりありませんでしたよ」
「……それは、成る程。あまり芳しくない状況ということでしょうか」
すっと、眉を顰めるのは葉室。
ぱちん、
「ええ、まあ。……どうしても人が多く集まる場所なだけに、“よくないもの”も集まりやすいのでしょうね。一昨日は、あなたが贔屓にしていた貸本屋の主人が……」
――ぱちん、
「……安心してください。大事には至っていませんよ」
「……、そうですか」
神薙が発足してから三年ほどの月日が流れた今なお、人ならざるもの達による被害は終息の兆しを見せていない。それが事実だった。
「早いものですね。あれからもう……三年も経ちましたか」
「ええ」
ぱちん、
「こうして、あなたと再び向き合えるようになってからも三年」
そう言った九条の言葉に、葉室はまた、僅かに眉を顰める。
「貴方もお人が悪い……」
そう口から零れた言葉を知ってか知らずか、九条は瞳を細めてゆるりと笑ったのだった。
*
幼い頃は、自分が前を駆けていた。
けれど、歳を重ねるにつれて、後ろに連なることが役割なのだと悟った。
立場や、家柄。
そんなものは気にするなとあのお方は言っていたが、言葉にするほど容易なものではないのが現実。
そうして過ごすうちに開いていった距離も、正面から交わることが無くなった視線も、“それでよい”のだと。互いに理解していたのではなかろうか。
*
ぱちん、
いつかの昔を辿り始めた思考を打ち止めするかのように駒を置き、次の一手は何処へ指そうかと盤上を見つめる葉室。
――しかし、相手の駒が盤上に置かれる気配がない。
一定の刻みで鳴らされていた拍が乱れた違和感に、葉室は対局相手である九条へと視線を向ける。すると、目の前の彼は駒を挟んだ指を宙で遊ばせていた。
「……どうなさいましたか」
葉室の問いかけを受け、九条は瞳だけを相手へ向ける。
「……」
暫くの沈黙。
そうして口を開いた九条は、少しだけ愉快そうに口角を上げる。
「……この一局。“負けた者が、勝った者の頼みを一つだけ聞く”そんな、賭けをしませんか?」
――“賭け”なんて、らしくはない言葉。しかし、これが彼の常用手段でもあることも知っていたから。
葉室は盤上に視線を落とし、そして、再び九条を見やり、軽く息を吐いた。

「……構いませんよ」
諦めたかのように発せられた言葉に、九条は堪えられないとでも言うように肩を震わせる。
「ふ、……はは」
「……なんですか」
おおよそ“彼らしくない”笑いっぷりに眉間の皺を深くした葉室は、少しだけうんざりしたように言葉を吐くも、気に留める様子のない九条。
「……だって、はは。………お前は本当に、優しいね」
未だ笑いを含んだ声でそう話す九条に、今度は苦い顔をする葉室。
葉室が何と言葉を返そうかと考えあぐねているうちに、笑いを沈めた九条が再び口を開く。
「……ふ、……失礼しました。……いや、けれど、本当に。……あなたは損をする生き方をしていますね」

「……」
九条の言わんとしていることが、きっと葉室には分かっていたのだろう。
「では、ご厚意に甘えさせていただいて――」
しだれ落ちる髪をはらい、最後の一手を指す九条。
――ぱちん、
『王手』
淡々とした言葉に次いで、にやりと細められた双眼。
――そうだった。
彼は昔から“こんな人”で。自分もまた、“こんな男”だった気がする。
そう思ったのは、どちらだったろうか。