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​『曙』

時期:3年前の春。 視点:九条

以降の道中、進路が途切れることも特別険しい場面もなくやや拍子抜けするような気持ちで奥へと進んでいく。

そろそろ件の祠とやらが見えてきても可笑しくないのではと、そんなことを考えていれば不意に冷やりとした霧が立ち込めてきた。

湿気と共に山間の気候とも言い難い薄ら寒さを感じれば、程なくして一丈先も見えぬほど辺り一帯を覆いつくされた。

その矢先——。

がさりと、前方の草木が揺れる。

「――、」

反射的に息を殺して前方を見据えれば、 進路を遮るようにして一匹の狼が現れたのだった。

ゆっくりとした動作で歩み出たその獣は首を低くして唸りを上げていた。知性が覗くその瞳はまるで“これ以上入ってくれるな”とでも言っているようにも見え、いよいよこの山の異質さを身をもって実感する。

 

「この地を荒らすつもりは一切ないのですが、……通してはもらえませんか」

 

ものを語らないその獣は、しかし、身体全体から敵意を滲ませていて。片足を半歩後ろに引きながらも身構えれば、獣は今にも飛び掛からん体勢になり——……、

 

”まて”

何処からか、抑揚に欠けた声が聞こえた。

 

「その人、……悪いことはしない」

​どこか拙い言葉と共に現れたのは、長い黒髪に面布が特徴的な男だった。

唸り声を響かせていた狼は、まるでその者の言葉を理解したかのように警戒を解き、今しがたの様子から打って変わって黒髪の人物に甘えるように擦り寄ったのだ。

(この者が件のイクルミサマか……?とすれば、獣と心を通わせる類の力だろうか。)

 

​さして探す手間もなく現れたその者の醸す浮世離れした雰囲気には、いやはやそれらしいものだと思いもした。

「あなたは——、……いえ、先にお礼を申し上げます。助かりました」

​面布のせいで表情が見えない状況にやり難さを覚えながらも礼を伝えるが、彼はこちらを一瞥するのみで。

「……あなた様が”イクルミサマ”と呼ばれているお方でしょうか。そうであれば、私はあなた様を探してここへ参りました」

こちらの言葉を聞きながらも屈んで狼を撫でていた彼は、顔だけをこちらに向けて口を開いた。

 

「イクルミサマってのは、俺で合ってる。ただ……、神様に会いに来たなら、俺はもう神様じゃあない」

得ていた情報と通ずるその言葉にはうら悲しささえ覚えるが、それと同時に会話は成立したようで安堵もする。

「あなた様が神をお辞めになられたと言うのなら、私にとっては都合のよい話です」

「……?そうなのか。じゃあ、何のために」

そうこうと話していれば、会話を聞くのに飽いたのか撫でられていた狼は彼の手を離れ、脇の獣道へと駆けて行った。

それを(見えているのか分からないが)視線で追った彼は立ち上がって言葉を続ける。

「……今から下ると夜になるな」

「ええ、確かにそうでしょうが……、つまり?」

傾きかけた日を見上げながらそういった彼は、話し半ばの状況などお構いなしな様子で踵を返して山の奥へと進んで行った。

「イクルミサマ、まだお話が——」

そう言っている内にも揺れる黒髪は遠くなって。

霧に紛れて見失ってしまいそうな後ろ姿を、一先ずは追いかけてみるしかないようだった。

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