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​『香車』

時期:3年前の春 視点:--

「お前、――」

「尊様、お怪我は」

 

やや食い気味な葉室の言葉に、続く言葉を飲みこんだ九条。

 

「……大したものではありません。それよりも、あなたの方が酷い怪我でしょう」

「いえ、問題ございません」

「……。お前は本当に」

 

はあ、と軽く息を吐き、自身の着物の袖口を少し捲り上げた九条。

九条はそのまま自由なほうの腕を葉室へ向け、今しがた刀を手放したばかりの腕をひねりあげた。

 

「……尊さ、」

「おやめなさい。私は怒ってなどいませんからね」

 

葉室の言葉を遮るようにして、言い捨てるようにして言葉を放った九条。

彼が握る腕を中心にして葉室の身体を淡い光が包んだかと思えば、その身体についていた傷はたちまちに癒えていく。

 

「止血程度は必要でしょう」

 

表面的な傷が癒えたことを確認した九条はぱっと腕を離し、真っすぐな瞳で葉室を見据えた。

 

「話したいことも、聞きたいことも沢山ありますが。……今は、荒れてしまったこの部屋を確認いたしましょう。二次的な被害があっては困りますからね」

「……承知いたしました」

 

改めて見回した部屋は酷い有様で。

激しい戦闘の最中で護符が剥がれかけているものや、一部が破損しているもの。乱雑に床に散らばるものに、何やら怪しげな瘴気を放つものまで様々だ。

 

――これは骨が折れるな。……いや、実際折れているのだが。

そんなくだらぬことを思ったのも、どちらだったろうか。

宝蔵での騒動をあらかた鎮め、後を役人らに引き継ぎ、御所にて一件の報告をし……そうして二人が自由になったのは夜も深けきった時間帯だった。

 

「思っていたよりも長い一日になってしまいましたね」

「……そうですね」

「想定外だった、という言葉は言い訳になりませんね。……あなたを危険な目に巻き込んで、申し訳ありませんでした」

「……いえ、そのようなことを仰るのはおやめ下さい。大事ございませんから」

 

陽が沈んでしまうと、日中とは打って変わって肌寒い。そんな春の夜。

ひんやりとした廊下を歩く二人は言葉少なだった。

 

そうして屋敷を歩き、中庭に面した渡殿にやって来た時。

徐に九条が足を止める。

 

「怪我、まだ癒えきっていないでしょう」

葉室の方を振り向いた九条はそう言いながら、片手を差し出した。

 

「……あなた様のお手を煩わせるほどのものでは」

眉を顰めた葉室は、まるで叱責を受ける幼子のように瞳を伏せる。

そんな葉室の様子を見て、一つ息を吐いた九条。

「――いいですか、万羽。手を煩わせているのは、お前のその態度ですよ」

 

言葉尻だけを捉えれば突き放すような言葉だが、その言葉に乗せられた音はひどく穏やかなものだった。

「あなたが私に何も話さなかったこと、責めているとお思いで?」

「……全ては、私の不徳が致すところですから」

「不徳、ですか……」

 

言葉を繰り返しながら、差し出していた手を力なく下ろす九条。

「何が徳か不徳であるかなど、私には分かりません。それを図り知るのは神のみなのでしょうから」

「……」

「けれど、分からぬからこそ、“自分の良心に従う”のでしょう?」

 

“自分の良心に従いなさい”この言葉は、葉室の父――羽一が、生前よく口にしていた言葉だ。

そして、今なお、葉室を悩ませる種でもあるのだろう。

 

「私の、良心……ですか」

「ええ。……少なくとも私は、あなたが悪戯に誰かを傷付けるような道を選ぶような人だとは思っておりませんからね」

「……それは買いかぶりです」

「さあ……。買いかぶりにするかどうかはあなた次第でしょう?」

 

くつくつと笑う九条に、困ったように眉根を下げる葉室。

そんな葉室を見て、九条は空へと視線を移した。

 

「……きっと、答えを見つけるのは簡単ではない。あなたはそういう、難しい問いに向き合っているのですよ」

 

天高く浮かぶ月を眺めながらも、言葉を続ける九条。

 

「死の際に、“自分の一生はこれでよかったのだ”と。……そう思えたなら御の字だと、私は思いますよ」

 

九条は空へと向けていた視線を葉室へと戻し、凛とした瞳で相対する双瞳を見据える。

「――今回の件。不慮の出来事だったとはいえ、私は……万羽、あなたが“力を持つ人間”であることを知ってしまいました。……それが意味すること、分かりますね」

「……、ええ」

 

少しの間を置いて、再び口を開いた九条。

 

「……葉室万羽。あなたのその力、この國の為にこそ……、賭しなさい」

 

そう言い、胸元から取り出したのは一つの書状。

葉室には、自分に差し向けられたその書状を読むことなく、意味することが理解できるだろう。

「――謹んで、お受けいたします」

両手で書状を受け取り、深々と頭を下げた葉室。

彼にはきっと、今、九条がどのような顔居るのかは分からないだろう。

「これから、この國のために。そして、人々の為に。共に精進してまいりましょう」

そういった九条に応えるように、葉室は顔を上げる。

「……微力ながら、お力添えをいたします」

 

穏やかな笑みを浮かべた九条は、軽く口を開き、……けれど、何も言うことなくその口を閉ざした。

 

数拍の後。

 

「では、帰りましょうか。……ああ、その前に、私の家へ。……治療はしっかりと受けてから、帰っていただきますからね」

 

そう言った九条は『返事は要らぬ』とでも言うように、御所の出入口へと向かって歩き出した。

その場に残された葉室は今しがた受け取った書状へと視線を移し、それを懐にしまい込むと、胸元に手を添えたまま瞳を伏せる。

 

――父上よ、私にはまだ、何が正しいのかは分かりません。

けれど、進む道の先、決して後悔はしないと。そう、誓います。

 

決意を固めるようにして襟元を軽く握り、先に去っていった彼を追うように、葉室もこの場を後にしたのだった。

​​『香車』-後編 終

【香車/きょうしゃ】将棋の駒のひとつ。前方には制限なく進むことができるが、後退はできない。

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