
朧ゝ夜行 -長夜綴り-
幕間
時期:3年前の冬。 視点:--
吉原での出来事から数日————。
「椿さん、荷物はそれだけでよいのですか?」
「……うむ、元より大切なものなど少なかったからのう。」
「分かりました。もし必要なものがあれば、道中か向こう<山城>で見繕いましょう。」
身請けとはやや異なるが、それと同等——いや、それ以上の支払いを行い、九条は無事椿の自由を得ることができた。主上の名の元に命ずればそれも必要のなかった対価かもしれないが、“郷に入れば郷に従え”だ。こうした形式を踏んだほうが後腐れがないだろうし、あの置屋が女達にとっての牢獄とて、沢山の人々が自身の生活をかけて商いを営んでいることには他ならないのだ。そう言った意味でも、きちんと筋を通すことを望んだのは九条と椿の人柄ゆえなのだろう。
「あまり目立つのも良くないかと思いまして、駕籠(かご)は大門を出てしばらくの場所に呼んであります。」
「……おおきに。」
そう言った椿は今しがた後にした置屋を振り返り、その入り口扉を静かに見つめた。
「……山城は遠いですから、これから先、簡単に戻ってくることはできないでしょう。あなたの気が済むまで待ちますよ。」
隣に並び立った九条は椿と置屋を交互に見やり、そして静かにこの場を後にしようとした。別れの時は一人で哀愁に浸りたいものやも知れぬと、そう思ったからだ。
「いや、もうよい。」
しかし、椿は九条の想像とは違って直ぐにそう言えば、二歩ぶん程度後ろに下がっていた九条の隣まで速足で歩み寄ったのだった。
「……あなたがそれで良いのなら。」
九条は僅かな間彼女の瞳を見つめ、それからゆるりと笑みを向ける。
天上には分厚い雲に覆われた空。今にも雪をちらつかせんとするそれは、新たな日々の門出には相応しくない鈍い色をしていた。しかし、そんな無彩色の中、椿は鮮やかな紅を揺らしてしっかりと地面を踏みしめていた。
大門を出た二人はそのまま振り返ることなく見返り柳を通り過ぎ。馬と駕籠を着けていた場所までやってこれば、ふと、九条が思い出したかのように口を開いたのだった。
「ああ……、ひとつ。旅立つ前に確認させていただきたいのですが……。」
「ん、なんじゃ。」
「……不躾を承知で聞くのですが、“椿”と言うのは芸名——所謂、源氏名というものでしょう。山城には仲間たちも居りますが、あなたの事はなんと紹介するのが良いでしょうか。」
繊細な話題故か、ひどく弱ったような表情のままそう言う九条を見れば、椿はたまらずといった様子で微かに笑い声を漏らした。
「ふふ、深刻そうな顔で何を言うかと思えば。」
一歩二歩と少しだけ先を行く彼女は、下ろしっぱなしの長髪を靡かせて九条を振り返った。
「……わっちは”ききょう”。玖香じゃ。」
くすりと嫋やかな笑みを浮かべた玖香はそのまま馬の方へと歩み寄り、数度その身体を撫でれば、軽やかに飛び乗って。
「————え、」
「駕籠はぬしが使うとよい。わっちよりも随分と……、いや、ふふ。兎も角、ぬしの方が必要そうじゃからの。」
揶揄うように肩を震わせれば、馬の横腹を蹴って駆けだした。何故だか馬も出会ったばかりの玖香を長年連れ添った主人のように思っているようでご機嫌に尾を揺らしているのだから、残された九条と馭者は瞳を瞬かせ。
「いや、あの、それは流石に……、というか、道、分かりませんよね————!?」
どうやら、玖香という人物は想像していた以上に多才なひとのようだ。