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前日譚【二話】後編

時期:前編同日。夜半。別所にて。 視点:九条

墨汁を垂らしたかのような闇にのまれた空に、点々と小さな光が瞬いている。

自身の呼吸音と、虫の音以外は何も聞こえないような夜。

​日中は気にも留めないその音がやたらと耳に響き、煩わしいとさえ感じる。

そんな寂しい夜に、ぼうっと天井を見つめて横たわる男が一人。

九条尊だ。

 

どうにも寝付けず浅い睡眠を繰り返しては目覚めていたが、三度重ねた頃には諦め、この夜をただやり過ごすことにしたのだ。

 

元より備わっている力のせいか、やけに心が落ち着かない夜がある。

そして、こうした夜には“何か”が起こるのだ。……勿論杞憂の時も多いのだが。

兎も角今夜もそんなもので、ただただ時間を浪費する。

 

――分かっているのだ。

大方“何も”起こらないことなんて。

それなのに、暗闇に怯え眠れなくなるなんて幼子のようで。

 

(……大の大人が、恥ずかしい話だな)

 

こんな夜でもやがては眠気が訪れないものかと、そう信じて瞼を閉じた。

 

 

 

            

公家町の一角に屋敷を構えている九条家。

その当主であるこの男の役目は『公家町に住む有力者と御所に住まう天皇を御守りすること』だ。

尤もそれも、この男が“結界を張る”などといった奇術を使うことができるからであり、なおかつその力の使い道を縛っておくことで利権絡みのいざこざを防止する為だろう。

この男自身もそれをよく理解しているし、出る杭になろうなぞとは思ってもいないので、与えられた命には従順だ。

 

天皇に連なる朝廷の人々を御守りし、お役目を全うする。

 

それで、それだけで。

十分立派にやっていると、許してやってもいいだろうか。

            

ギャン、と。

耳を劈く獣の鳴き声ではっと目が覚める。

そして、ことを理解する。

“何か”が起きてしまったのだと。

 

反射的に枕元に携えていた懐刀と和紙の綴りを帯に差し込み、寝殿を飛び出す。

そして、同じく何事かと部屋を出てきた侍女らに一声だけ掛け、そのまま外へ駆けだした。

闇夜に浮かぶのは、やけに強く輝く満月。

それに明るく照らされた夜道を反射的に、真っすぐ御所へと向かう。

道すがら目にした獣の亡骸に、嫌な予感が加速する。

(ああ、もう。肝心な時に私は……。)

焦る気持ちと裏腹に、軟弱なこの体は思うように急いてはくれず、それももどかしい。

 

            

御所に着いて、九条はその異変を悟った。

冬を超えた生き物たちが一斉に目覚める春の夜だと言うのに、虫の羽音一つとして響かない程に静かなのだ。

逸る心を落ち着けるように息を吸い、誰か人は居ないかと周囲に目を配るも人影はない。

 

「御免!どなたかおられぬか!」

「ここの守護を仰せつかっている九条と申しますが!」

その声にも、なんの応答もなく。

 

今一度息を吸いそのまま足を進めると、以前訪問した際に張り付けておいた護符が全て剥がされている様子が目に入った。

「……何がどうなっているんだ」

そこらの妖怪や悪霊に簡単に剥がせるような造りにはしていなかった筈。

いよいよ事態の深刻さを感じ、状況を確認するべく本殿に足を踏み入れた。

 

中に入ってみれば、やはり人影ひとつとして見当たらない。

そして、その代わりに。

足を踏み入れて分かったのだ。

肌をひりつかせるような圧と、呼吸をするのも億劫になるほどの淀んだ気。

それらがこの建物の中を占めていることに。

結界とは外と内の行き来を防ぐものであるが故に、一度内側に入られてしまえば成す術はない。

そして、他に自分にできることといっても治療や封印。

封印に関しては、そもそもある程度の準備がいるようなもので。

つまるところ、今妖怪や悪霊に出くわしたところで打つ手はないのだ。

そんなことに思考を巡らせながらも、屋敷の奥へと歩みを進める。

――ぎい、

床板の軋む嫌な音が響くたび、背筋を嫌な汗が伝う。

 

そして、丁度庭に面した御帳台の前に来た時だ。

『こんばんは』

 

先ほどまで生き物の気配が全く感じられなかったにも関わらず、人の声。

――いや、人ではない。

一歩飛びのき、そのまま視線を庭の方へと向け、“それ”を捉える。

 

そこに居たのは、我らが天皇陛下……の、姿を借る何か。

 

「主上!」

 

弾かれたように庭へ降り立ち、それを見据える。

 

『月見日和にそのように荒んで……。人間というものはなかなかどうして風情に欠けるね』

こちらのことを取るに足らないと思っているのだろう。“それ”は優雅に庭を歩いている。

 

「そのお体、お前のような生き物が手出ししてよいものではない!」

『……酷い言い草だ』

“それ”はゆったりとした動作で顔をこちらに向ける。

そして、悲しそうに眉を下げたのだ。

 

『月が美しかったから散歩に来たんだ。それと、ついでに御挨拶をと思ってね』

得体の知れぬそれは、言葉を続ける。

 

『人間は、長く勘違いをしているようだから』

うっそりと瞳を細め、十分な間をとってそれは言う。

『共に生きてあげていたのはこちらだよ。……けれど、そろそろ潮時かなと思ってね』

「……何が言いたい」

こちらの問いには答える気がないのだろう、笑みを返すだけのそれ。

『大丈夫。長く生きる私たちは気も長いからね。……人間と違って』

それだけ言うと、くるりと向こう側を向くそれ。

 

『あと少し――、三年三月の時間をあげよう』

『そうして、再び見えた時。その時が、私たちの世の始まりの時』

『それじゃあ、その時まで』

そして、ふっと一吹きの風が流れたかと思えば、先ほどまでの重圧感は綺麗さっぱり流れて去っていった。

憑き物が落ちたかのように崩れ落ちる天皇をすんでのところで受け止め、安否を確認する。

 

「脈も呼吸も正常……外傷もない。……眠っているだけか」

改めて周囲を見回せば、屋敷の明かりは灯り、人の気配も感じる。

そうして直ぐに、ばたばたと御所の警護に当たっている武士が駆け寄って来た。

「主上!九条殿!大事無いですか!」

まるで神隠しにでも遭っていたのか。

今しがたの出来事を知らぬような素振りで、口々に何があったのがと問いただしてくる彼ら。

 

「……説明は後ほどに。まずは主上を安全な所へ。それと、念のためにも医者に診てもらいましょう」

「そうですね。おい、お前はすぐに医者の手配をしろ!それと、お前は……」

 

慌ただしく動く彼らに後を預け、真っすぐに天上の月を見つめる。

――あれは何者だったのだろうか。

​こちらに対する敵意は感じなかった。ならば、その意図は。

あの悲しそうな瞳が意味することとはなんなのだろうか。

三年三月の後、何が起こるのだろうか。

日の本全土で起こっている事態と、あれは関係があるのだろうか。

 

考えても答えの出ないことばかりが渦を巻き、思考を満たす。

そしてやはり、自分の不甲斐なさが胸を満たす。

ぎり、と。奥歯を噛み締めても、現実に何か変化が起こる訳ではない。

守りたいものを守れず、しかし、理由を付けて現状に甘んじていたのに。

結局、守らねばならぬものすらも零れてしまった。

では一体、この手は何を掴むことができるのだろうか。

――愚問である。

分からずとも、掴めずとも。命ある限り手を伸ばし続けることが与えられた役目。

そして、生きる意味なのだから。

乱れた襟元を正して今一度白く光る月を見上げると、そこに浮かぶ大きな満月はいつの間にか靄に覆われていた。

柔らかく、ほのかな光を透かす月。

春の夜の、朧月。

 

その優しい光が照らすこの地に、どうか幸多からんことを

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